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江戸東京を支えた舟運の路/難波匡甫

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 かつて江戸東京を支えた利根川内陸水運に関する本。このシリーズの続編となる。

 かつて、北国から江戸に運ばれる米や特産物は、海路でそのまま東京湾に入ってくるのではなく、1度千葉県銚子で川船に積み替えられ、そこから利根川をさかのぼり、江戸川を経由して江戸に入る…といったルートが一般的であった。何故なら当時の鹿島灘、九十九里浜沖の海路は難所とされ、遭難事故が多発していたからだ。
 実際、その海域で不意に沖に流され、黒潮の流れに乗ってしまい、沈没は免れても、遙か北まで漂流してそのまま帰らぬ人となった船乗りは多い。遭難した場所こそ違えど、江戸時代、ロシアに渡りエカテリーナ女帝に拝謁した大黒屋光太夫も、黒潮に乗り、カムチャツカまで流されている。

 それはさておき、北国からの荷物の殆どが、利根川と江戸川水系を利用して江戸入りする訳だから、当時の川の賑わいは、想像以上のものであったろう。現存する写真で、明治に入ってから、今の千葉県松戸市近辺で江戸川を撮影した写真があるのだが、大小様々な川船が浮かんでいて、たいそうな賑わいである。そんな時代もあったのだ。

 その利根川水系内陸水運だが、江戸中期に起きた浅間山の噴火以降、火山灰が川に堆積し、大型船の通行が困難になり、徐々に衰退してゆく。他にも、房総沖を航海する安全なルートが開かれたりして、利根川水系内陸水運の地位は徐々に下がっていった。
 それでも、今と違い、中・短距離の輸送手段として、やはり川を使った水運は盛んであり、明治に入ってからも、上流の回航困難な関宿をパスする目的で利根運河が掘られたりして、川はそこを利用する運送業者や旅客船などで賑わい、今の人気のない利根川の姿とは全く違う様相を呈していた。

 本書では、そのかつての内陸水運のコースを、可能な限り川から辿っている。現在の巨大な堤防で隔離された河川上から、かつての川の足跡を感じることは難しいみたいだが、それでも現在のスーパー堤防の外側には、わずかながらも、水運で栄えた町の栄光を見つけることが出来る。

 以前も書いたと思うが、現在の日本は、あまりにも水上交通の利便性を忘れきってしまっていると感じる。もちろん、時間にも正確で天候に左右されにくいトラック運輸が、物流の主力を担う現実は変わらないだろうが、そんな今でも、河川を利用した物流ネットワークというスタイルは、なんかしら利用できる余地があると思える。本書を読んで、そんな事を感じた。

江戸東京を支えた舟運の路―内川廻しの記憶を探る(水と“まち”の物語)/難波匡甫

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