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鉄砲を捨てた日本人/ノエル・ペリン

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P8140004.JPG 歴史の本としての体裁を取っていますが、実は思想書と言った方が正しいかもしれません。

 私達日本人が初めて「鉄砲」を手にしたのは、1543年9月23日、種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人が持っていた火縄銃を手にしたときです。時の種子島島主がその銃に興味を持ち、二千両という破格の値段で買い取ります。そして、丁度戦国時代だった日本の隅々にまで広がってゆきます…というのが、歴史の教科書で習う記述です。

 でも、冷静に考えると,今まで見たこともない「鉄砲」と呼ばれる武器を、たった二丁買い取っただけで、すかさずコピーしてしまう当時の日本の技術力には驚きますよね。しかも、場所が「堺」や「国友」という技術者の街ではなく、種子島という田舎(失礼)であることも注目だと思います。これは、当時の日本で、銃製造に必要なレベルの製鉄・冶金技術が国内で普遍的に広まっていたという証拠になります。
 本書では「日本刀制作の技術があったので銃の製造は容易だった」みたいに書いてありますが、当然ながら日本刀制作技術だけで銃の制作はできない訳で、当時の日本の鍛冶職人達は「鉄」という素材について、幅広く深い知識を共有していた…ということになるでしょう。

 因みに、現代においても銃の設計と製造というのはそれなりに大変なことで、コピー品のAK-47製造はともかく、独自に高性能な銃を設計・製造出来る技術を持った国は限られています。完全オリジナルに近い銃を製造できるのは、アジアでは今でも日本くらいかな。
 激しい衝撃と温度変化、並びに粗雑な扱いに耐え、暴発などを絶対に起こさないようしかも安く設計しなければならない銃とは、火薬や冶金などに高度な技術と経験則が求められ、コピーは簡単でも、オリジナルの設計はなかなか難しいのです。

 で、16世紀に戻りますが、当時の日本人は、その二丁の銃を元に、様々な改造…再設計を施し、日本国内で大量生産を始めます。呆れたことに、その数は全世界の銃を合わせた数よりも多いとされていて、戦国の日本国内は大量の銃で埋め尽くされます。
 やがて、秀吉の時代になり、日本が平定されてゆく中で余り始めた銃は、逆に東南アジアへと輸出されるようになります。その時の日本製火縄銃の評価は、それなりに高いモノだったようです。

 で,ここからが本題なのですが、世界の全てを合わせてもまだ多いとされる銃を、日本社会は何故か捨ててしまいます。もちろん、秀吉の時代に行われた、刀狩りなどによる在野の武器強制徴収政策や、次の徳川幕府による徹底した軍縮命令(武家諸法度等で、銃はもちろん、城、刀、軍備など幅広く縮小させられた)によるものではあるのですが、刀については、なんだかんだで皆手放さなかった割に、大量の銃だけが綺麗さっぱりと日本国内から消えてゆったという現象は、お上からの命令だけでは説明しきれないと思うのです。
 この著者は、その理由を日本人特有の「美意識」に求めていますが、私としてはなかなか納得できるモノではないな…と考えたりします。

 当時の日本人が、そろそろ終わりにさしかかっていたとは言え、野蛮な植民地政策をとっていた西欧諸国すらびびらせる程の重武装を、たった100年程度で放棄してしまう事は、確かに世界史上では大変珍しい出来事かもしれません。
 しかし、お隣の大国中国を見ても、大戦乱の中、中国を統一した王朝は、割とアッサリ軍備を解体してしまい、その隙にまた北方蛮族に襲撃されて慌てるというマヌケな歴史が何度かあったりするので、この軍縮という考え方は、ひょっとしたら、アジア的価値観の中でもう少し説明できる現象なのかも…とも思ったりします。

 また、ここであまり突っ込んだ説明はしませんが、象徴的な日本国の皇帝である天皇家は、歴史上軍隊を殆ど所持していませんでした。
 武士の前の時代、象徴ではなく実質の皇帝であった時代にも、天皇家は私設軍隊を所持せず、必要な軍備は傭兵を用いて対応していましたし、また、用が終わればその軍事力を維持しようとせず、アッサリと解雇したりしていました(だからこそ職と食を失った武士が団結し、後の武家社会が始まったとも言えるのですが)
 何が言いたいのかというと、私達日本人は、昔から軍事力については血をもたらす「穢れ」として、忌み嫌っている部分が多かれ少なかれあったということです。この考え方は案外現代人である私達にも受け継がれていて、現代の反戦運動についても、理屈ではない部分での軍隊への嫌悪感は、この「穢れ」の思想が続いているのではないかな?と思っています。

 そんな日本人だからこそ、軍事力の象徴であった「銃」を、割と当然のように捨ててしまったのかもしれませんし、その心境は、残念ながら私も普通に理解できてしまうのです。だって…必要ないのに軍備増強してても仕方ないし(笑)
 なので、本書で言うところの「美意識」というのは、西欧的価値観による後付設定なのかも…と思ったりもしました。

 ま、色々とダラダラ書きましたが、本書は、世界史上でも珍しい、江戸時代前期に起きた「軍縮」にスポットを当てた思想書として、なかなか面白いです。しかし、この思想が現代の核軍縮理論にそのまま結びつくのか?といえば、ちょっと疑問ではありますし、少しユートピア的過ぎるかもしれません

 何故なら、私達日本人はイザ軍備が必要とあらば、すぐに周辺諸国が引く程に重武装することを繰り返している訳ですから。

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鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮/ノエル・ペリン(中公文庫)

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