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寛容の帝国/ウェンディ・ブラウン

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20110531_01.jpg 原書のタイトルを直訳すると「嫌悪を規制することーアイデンティティと帝国の時代における寛容」となるらしい。割とさっぱりした「寛容の帝国」という書名からすると、現代における帝国論を語っているのかとも誤解しがちかもしれない。本書の内容はもっと政治評論というか、思想書に近い。

 「寛容」という語感から思い起こされる私達のイメージは如何であろうか。許す、受け入れる、おおらかな心で…といった、わりと許容的でユートピア的印象がある気がする。
 しかし、本書で(あるいは翻訳文献として)語られる「寛容」という意味はもう少し堅苦しく、時には支配者と被支配者を分類する用語としても使われるようだ。
 英文でいう寛容を意味する「トレランス」には、どちらかというと「許す」よりも「耐える、我慢する、辛抱する」という意味に近いようだし、他では、植物生態学の、ぎりぎり植物が生存しうる基本物質の欠乏量を示すのに「トレランス」、臓器移植、薬などで身体が耐えられる量を「トレランス」、機械、工学、の公差も「トレランス」という用語が使われるらしい。少なくとも日本語でこれらの用途に「寛容」は使われないだろう。その意味まずしっかりと覚えておかないと、本書を読み進めるに辺り違和感を感じるし、上記についての解説は本書でもしっかりと語られている。

 以降は、政治における寛容、同性愛における寛容、性差における寛容、人種における寛容など、現代アメリカの例を中心にとり、様々な状況に置ける寛容と非寛容を論じている。
 現代の多民族国家には「寛容が必要である」とは、様々な場所で言われている言葉ではあるが、そこで言われている「寛容」とは、普段私達が簡単に思っているような意味ではなく、時に、私自身のポジションを明確にした上で、あなたの何を許し耐えるか…といった、軋轢の最前線で問われる意味である場合があると認識できただけで、本書を読んだことは非常に有意義。というか、難解な内容にもかかわらず、読み始めると本当に止まらないエキサイティングな内容だった。

 それと、私は本書を読んで初めて知ったのだが、アメリカにある「寛容博物館」という章についても、驚きながら楽しく読み進められた。
 本館は、博物館と名付けられてはいるが、一種の教育機関に近い場所であり、入場者は必ずガイドに拘束されながら約70分間、寛容について学ばなければいけない。携帯電話、カメラ、その他危険物は全て入り口で預け、途中は見学者同士での議論を求められ、トイレ休憩さえも許されないその非寛容さに彼女は「もうそろそろトイレに行ってもよいだろうか」というやや皮肉めいた文章でまとめている。
 私はこの博物館のアメリカにおける社会的ポジションを知らないのだが、おそらく批判や皮肉が受け入れられにくい施設なんだろうなとは想像でき、挑発的だ。なにせ活動目的が「訪問者に偏見や人種差別と立ち向かい、ホロコーストを歴史的かつ現代的な文脈のもとで理解するよう喚起すること」だからね。

 著者のウェンディ・ブラウンは、フーコーに強く影響を受けた「挑発する知性」みなぎった政治学教授だそうである。翻訳者後書きからの引用だが、“女性の傷ついた経験から生まれる女性の「真理」というフェミズムの通念を批判し”という部分は、確かに挑発的でありながら、フェミニズムの本質を突いた問いかけであると思う。

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寛容の帝国―現代リベラリズム批判/ウェンディ・ブラウン

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